米軍基地跡だった空き地に、緑豊かな「街」が誕生
新宿から中央線で約26分。都心からのアクセスに恵まれ、駅近くには緑豊かな国営昭和記念公園が広がるこの街は、かつて「基地のまち」だった。
大正時代に整備され、立川駅周辺に広がっていた「立川飛行場」は、1970年代まで米軍基地として使用されていた。立川は長い間、戦争のイメージと切っても切り離せない街だったのだ。
ところが平成に入ると、街は徐々にその姿を変える。土地区画整理事業や駅前の再開発により、大型商業施設やデパートなどが次々とオープン。上空を多摩都市モノレールが走る光景は、街の発展を印象づけた。
そして来たる2020年4月、残されていた駅北側の約3.9haの広大な空き地に、大型複合施設「GREEN SPRINGS」がオープンした。
「ウェルビーイングタウン」をコンセプトとする同施設には、店舗や飲食店のほかに、2500席規模のホール「TACHIKAWA STAGE GARDEN」や、日常遣いできる都市型リゾートの「SORANO HOTEL」、保育園、オフィスなどが配置されている。単なる商業施設ではない、人が暮らす「街」を意識したテナント構成が特徴だ。
歩いていると、点在するアート作品や遊び心のある演出が目を楽しませてくれた。よくある郊外の大規模商業施設のような既視感がないのは、こうした細部へのこだわりに、施設の個性が表れているからかもしれない。
新型コロナの影響で、4月のオープニングイベントは全て中止に 。しかし平日の夕方に高校生が訪れておしゃべりを楽しんだり、カスケードで水遊びをしたりするようになり、彼らの口コミから、 徐々に評判が広がった。 以前は立川駅からIKEAに向かう人々が通り過ぎるだけだったエリアが、現在では多くの人でにぎわっている。取材日は平日の昼間だったが、子ども連れのファミリーや若い女性が多く訪れていた印象だ。
この「GREEN SPRINGS」の開発を先導したのが、立川市のほぼ中央に約98万平方メートルもの土地を所有する、株式会社立飛ホールディングスだ。
1924年設立の立川飛行機を前身とし、戦後は不動産賃貸業を中心に事業を展開してきた同社が、地域社会に対する貢献へと舵を切ったのは2012年。グループ再編を経て、村山正道さんが代表取締役社長就任したことがそのきっかけとなった。
村山社長は、昭和48年(1973年)に立飛ホールディングスに入社。代表取締役社長に就任するまでの33年間、一貫して経理を務めてきた村山社長は、地域貢献に対する思いを次のように語った。
「かつての当社は、敷地を万年塀で囲うような閉鎖的な会社、地域に開かれているとは言えませんでした。でも私は、土地とは単なる資産ではなく社会資本なのだから、それを所有している以上、地域に対する責任を果たさなくてはならないとずっと考えていました」
村山社長の率いる立飛ホールディングスは、意思決定の速さを強みに、この8年で数々のプロジェクトを展開してきた。2015年12月の「ららぽーと立川立飛」を皮切りに、日本最大のフェイクビーチ「タチヒビーチ」、スポーツ大会やイベントで利用できる「アリーナ立川立飛」「ドーム立川立飛」などがオープン。街づくりを通じた社会貢献を意識しているからこそ、商業施設一辺倒ではない、多様な事業を誘致してきた。特に、街の文化振興への思いは強い。
「世界的に見ても、歴史上長く栄えてきたのは芸術・文化の街です。立川を、買い物ができるだけではなく、音楽などの芸術やスポーツを楽しめる街にしたいんです。今はなんでもオンラインでできると言われていますが、やはり生で見たときの刺激や学びは大きい。特にこの街で育つ子どもたちには、そうした環境を提供したいですね」
いま郊外の街の多くは、商業施設を中心とした再開発により、どこも同じような 印象だ。そんななか、立川はオリジナルな発展を遂げているように見える。参考にしている街はあるかと村山社長に問うと、「どこかの真似をしている感覚はない」と即答だった。
「立川には立川の街の歴史があり、独自の文化があります。それはほかのどの街とも、似て非なるものです。地域独自の文化を前面に押し出したまちづくりをすれば、街の魅力が上がり、結果的に住みたい人や働きたい人が増えると考えています」
「GREEN SPRINGS」には、ところどころ飛行場のモチーフが散りばめられている。街の歴史を大切にする立飛ホールディングスのこだわりが垣間見えた。
子ども時代のイメージが一変。立川は「変化を受け入れるまち」
変わっていく立川を、住民はどんな気持ちで見つめているのか。立川エリアで生まれ育った、あけぼの商店街振興組合理事長の岩崎太郎さんにお話を聞いた。
岩崎さんは1995年に同組合の理事会に参加。2011年から代表理事として地域のさまざまな活動に携わっている。岩崎さんは活動を通じて、街の歴史の深さを知るとともに、立川ならではの良さに気づいたという。
「立川には特別有名な観光名所があるわけではありませんが、面白い施設が駅前の狭いエリアにぎゅっと詰まっています。専門店や百貨店、家電量販店、映画館、劇場、スポーツ施設、サブカルチャーや芸術関係の施設など。自然と触れ合える国営昭和記念公園もあります。新型コロナの影響で遠くに行きづらい時期だからこそ、徒歩圏内にこれだけの楽しみがあるのは一層魅力的に感じますね」
笑顔で語る岩崎さん。しかし意外なことに、子ども時代にはあまり立川にいいイメージを抱いていなかったという。
「親には、駅の北側(現在GREEN SPRINGSがあるエリア)には行くなと言われていました。昔その辺りは米軍基地でしたから、基地の方を相手にしていた大人なお店も多かったんです」
それが平成に入り、立川はみるみるうちに変貌を遂げる。再開発が進むにつれ、昔ながらの街並みが失われたことを嘆く住民もいた。しかし岩崎さんは、「今の立川の方が断然いい」とすっきりした表情だ。
「ずいぶんにぎやかになりましたよ。街が大きくなったと感じます。人口は昔からほとんど変わっていませんが、立川には昼間働きにきたり、遊びにきたりする『昼間人口』が多いんですね。居住人口が今後増えることは考えにくいので、関わってくれる人を増やすのは、街が存続していくために大切なことです」
昼間人口の増加とともに、人が訪れるエリアも広がっている。かつては「良くなったのは駅前だけ」と卑下する人もいたそうだが、GREEN SPRINGSは立川駅から徒歩8分。駅からは少し離れた場所にある。岩崎さんの言うように、街の大きさは確実に広がっており、それとともに、街全体に活気がもたらされているのだ。
「若い人が関わりたいと思ってくれる、魅力ある街であってほしいですね。立派な施設ができても、建物自体はいずれ古くなります。街が発展し続けるためには、やる気のある人がチャレンジしやすい環境が必要です。幸い立川には、よそ者を拒むような地域性がありません。昔から何でも受け入れる街なんです。懐を広く保っておくことが、立川の未来のためには大事なことだと思いますね」
変化を拒まず、受け入れる。日本の人口減少が止まらない中、立川の歴史は、郊外の街が発展し続けるための一つの方向性を示しているように見えた。