自宅や学校、職場でもなく、はたまた自治会や青年会など地域にもともとある団体でもない。加入も退会もしやすくて、地域のしがらみが比較的少ない「第三のコミュニティ」のありかを、『ローカルメディアのつくりかた』などの著書で知られる編集者の影山裕樹さんが探ります。
韓国語圏の本、文化を日本に紹介する出版社・クオン
映画化もされ、韓国国内で130万部の大ヒットとなった小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が日本でも話題をさらったのは記憶に新しいですが、2010年ごろから、韓国の小説を積極的に紹介してきた出版社が神保町にある“クオン”です。名作から気鋭の作家の短編小説、コロナ禍に立ち向かった市民や医療関係者の声を集めた本など、韓国の文化にまつわる本を出版するほか、ブックカフェ「チェッコリ」には、連日韓国文学好きが訪れます。(現在カフェは休止し、書籍のみ販売)
コロナ禍にあってリアルイベントの開催は難しくなっていますが、文学のみならず映画やドラマなど、韓国コンテンツ好きの仲間たちが集まるイベントや、翻訳者を養成する翻訳スクールも人気です。またクオンではリアル店舗の運営以外にも翻訳コンクールを主催するなど、韓国文学ファンや韓国文学を紹介する人々の裾野を広げる活動を続けています。
広告代理店を経て出版業界に参入
クオンを立ち上げた金承福(キム・スンボク)さんは、韓国・全羅南道霊光出身。ソウル芸術大学卒業後に留学生として来日し、日本大学を卒業後、日本のインターネット関連の広告代理店に就職します。当時、金さんは『韓国.com』という、韓国の芸能、スポーツ、文化を紹介するポータルサイトを担当。そのうち、海外の取引先とやりとりしながら多言語対応のウェブサイトを制作するなど、さまざまな仕事を受けるようになっていました。
「3年くらい仕事をした後、その会社が韓国部門の仕事を辞めることになって。でもクライアントからは辞めないで欲しいと言われ、結局私がその部門を引継いで別会社を立ち上げることになったんです。不思議なことに、同じ会社の中に机もあるんだけど、別会社。当時、2000年ごろの日本はインターネット関連の仕事がどんどん増えていく時代だったので寝る暇もないほど忙しかったですね。とても儲かりましたけど(笑)」(金さん)
次第にウェブだけでなくイベントや展示会、ショールームのデザインなど大規模な仕事が増えていきました。そんな働き詰めだった2008年、リーマンショックが起こります。
「今考えれば、(本のように)在庫も抱えず返品もないわけですから、その分心配することも少ないし仕事は楽しくて仕方なかった。けれどリーマンショックで仕事が激減して、外的な要因に左右されるクライアントありきの仕事に疑問を持ち始めました。景気に翻弄されず、自分の努力次第で経営が成り立つ仕事がしたい。そこで、ウェブの会社をたたんで出版社を立ち上げました。実はずっと出版に関わる仕事がしたかったんです」(金さん)
出版社が書店を経営する理由とは?
そんな中、未経験で飛び込んだ出版業界に、金さんは戸惑いを覚えました。それまでは主に外国の取引先との仕事が多かったのですが、出版業界は印刷会社も、取次会社も書店もみんな日本人。「そのとき初めて、自分は日本にいる」と金さんは感じたそうです。そこで、いきなり出版物を刊行し始めるよりも、まずは業界との関係づくりからスタートしました。
「韓国コンテンツはどんどん盛り上がっていたので、当初は翻訳エージェントの仕事をメインで活動を続けていました。前の仕事も言ってみればウェブエージェンシーだったわけで、編集プロダクションに近いんですよ。仕事を引き受けて、校正して、翻訳をして、ウェブに載せるという仕事。私の中では繋がっているんです」(金さん)
2010年に入って、「新しい文学シリーズ」の刊行をスタート。当時は折しも、2002年の日韓ワールドカップ、2003年の「冬のソナタ」の大ヒット、K-POP……韓流コンテンツは追い風になっていました。でも、文学はまだちゃんと紹介されてなかった。良い作品を紹介すればきっと受け入れられると金さんは信じていました。
「韓国では有名な作家でも日本ではほとんど知られてない。読者に興味を持ってもらうため、本を出すだけではなく、日本の著名作家との対談を行ったり、読書会もたくさん開きました。でも常にスペースの問題にぶち当たるんです。そこで2015年に神保町に引越してブックカフェを開きました。書店を自分たちでやれば、好きな時にイベントができるし、読者の顔も見えるじゃないですか」(金さん)
翻訳コンクールの開催と書店のシナジー
チェッコリでは自社の本を売るだけでなく、他の出版社の本も販売しています。運営元がクオンだと知らずに来店するお客様も多いそうです。
また、チェッコリの棚の大多数は韓国の本で占められています。その数約4000冊! 文学だけでなく、絵本、漫画、人文、実用書まで幅広く扱っています。
「最初チェッコリを始めようと思ったとき、『誰が韓国語の本を読むんだ』って言われました。でもチェッコリでは韓国語の本が売れます。しかも、日本の本と違って海外の本は売り値を自分たちで付けられる。出版というよりは輸入販売業に近い。話題になっている本だけでなく、自分たちが紹介したいものを選んで仕入れる楽しさもあります」(金さん)
韓国関連の書籍の棚を広げたかった
ほかにも金さんは、韓国書籍が日本国内で広く翻訳されることを目指す「K-BOOK振興会」という団体を立ち上げ、おすすめ本に関する情報発信をしたり、韓国文学翻訳院との共催で翻訳コンクールを毎年開催しています。この翻訳コンクールでは、毎回2本の短編が課題として出されます。それにしても、短編2本とはなかなかハードルが高い。
「翻訳者の発掘も大切なので始めたのですが、第一回目で200人以上の応募があったんですよ。短編2本って結構なボリュームなのに、これだけチャレンジしてくれる人がいるのはすごいことです。潜在的なニーズを感じました。私たちの翻訳コンクールでは最優秀賞作はクオンで出版することにしています。課題となる短編の原書を書店で販売し、優れた翻訳を出版し販売する、出版、書店、コンクールの関係がうまく機能しています」(金さん)
そのうち、翻訳コンクールに応募した人たちがツイッター上で情報交換を始めます。「これ。みんなどういうふうに訳している?」などなど。この様子を見た金さんは、翻訳スクールの開講を思いつきます。
「世の中に韓国語会話のスクールはいっぱいありますが、翻訳専門のスクールってあまりないな、と閃いたんです。私たちのお客さんには韓国語教室の先生が多くいますが、翻訳専門の教室であれば先生たちと競合することもないじゃないですか」(金さん)
翻訳スクールの優れた生徒やコンクールの受賞者を、他社に紹介することもします。
金さんは繰り返し、「ニーズをつくることが大事」と語っていました。書店で「海外文学」の棚に少し紹介されるだけだった韓国文学を、それだけで棚ができるようにしたい、だから韓国語の本を翻訳する仲間を増やしたいんだ、と金さんは語ります。
文学ツアーで“仲間たち”との親睦をさらに深める
他にも、今年はコロナの影響で行けませんでしたが、金さんは「文学で旅する韓国」というツアーを毎年開催しています。30人ほどのメンバーで小説に出てくる舞台を訪れたり、作家に会いに行ったりなど、3泊4日にわたる贅沢なツアーです。
「半数くらいはリピーターで、もはやクオンや韓国文学のファンというよりは仲間ですね。そのなかのお一人は写真が趣味でいつも素敵なツアー写真を撮ってくれるのですが、韓国で写真展を開くのが夢だったそうなんです。私たちのツアーに参加した際、現地のギャラリーのオーナーと話をつけて、写真展を開くことができました」(金さん)
この話はもちろん、チェッコリで報告会というかたちで話してもらいました。他にも、最近ではソウル大学に留学された方が、オンラインで大学生活について話してくれたり。このように、チェッコリで開催するイベントでは “仲間”たちがホストを務めることも多いそうです。
「心がけていることがひとつあって、偉い人を呼んで聞いてもらうだけのイベントにはしない。“お客様”扱いはしない。その代わり、みなさんにも韓国にまつわる得意なことをイベントでシェアしてもらう。当日は椅子を並べるのを手伝ってもらったり、飲み物を運んだりという作業を手伝ってもらうこともあります。みなさん喜んでやりますよ。“仲間”ですから」(金さん)
今回の取材で、金さんが、「誰も損しない、みんなが幸せになる仕組みをつくるのが好き」とおっしゃっていたのがとても印象に残りました。出版社と読者、作家とファンという非対称な関係ではなく、みんなが等しく韓国の文化を盛り上げようとする“仲間”であるという感覚は、コミュニティを資産とした事業運営を考えている人にはとても大事なポイントだと思います。クオンの場合、ひとりひとりのお客さんだけでなく、書店、他の出版社、韓国の政府機関など、さまざまなステークホルダーと競合することなく協働するところにその姿勢が見て取れます。
クオンやチェッコリは、韓国と日本の文化交流を促進するうえで貴重な場だと思いますし、そこに集う“仲間”たちの結びつきは今後もさらに強まっていくことでしょう。韓国ドラマやK-POPから韓国カルチャーに興味を持った人はぜひ、一度チェッコリに訪れて文学にもハマってみませんか?